「琉球列島における芭蕉布のルーツ」に関する主要な研究調査結果

本研究の調査結果はそれぞれが密接に関連しているが、出来る限り「研究の目的」で掲げた疑問点を別々に扱い、述べたい。

第一の疑問は、琉球列島に見られる芭蕉布の起源に関する疑問であり、原料である糸芭蕉の起源と芭蕉布製作技術の起源という2つの部分から成っている。

1.     3つの分布説を通して糸芭蕉の起源を探る

植物学から見て、最近の研究では、繊維が採れる琉球列島の糸芭蕉は一種しかなく、それはバショウ科バショウ属(学名Musa)のMusa balbisiana(ムサ・バルビシアーナ)である〔Constantine 2008 [1999]Walker 1976: 324〕。そのムサ・バルビシアーナがどのような経路で琉球列島に入ったかについては諸説あり、それらを「自然分布説」、「漂着説」と「人為的持ち込み説」の3つに大別できる〔詳細をヘンドリックス200460頁〕。

植物分布に関する調査研究報告書によると、琉球列島を含む日本は、東アジアに見られるMusa類の分布境界線内に位置していない〔Pollefeys, Sharrock and Arnaud 20044頁〕。これにより、琉球列島に見られる糸芭蕉は土地に固有の植物でないという事が判る。要するに、「自然分布説」を排除する事ができる。

次に、これまでの定説である、糸芭蕉は南方、つまりフィリピン、インドネシア、マレーシア等、東南アジアの国から琉球列島に入ったという「漂着説」を検討した〔伊波1974121-139頁〕。もしムサ・バルビシアーナが台風や黒潮等の海流によって東南アジアから琉球列島に漂着したとすれば、この種は古来から八重山諸島にあったはずである。日本最西端の国境の島である与那国島や西表島の山には糸芭蕉が豊富だが、植物学の見地から見ると、糸芭蕉は短期間で広がりやすいので、現在そこにある糸芭蕉が古来から存在していた証拠にはならないと云える。

最後に「人為的に持ち込まれたという説」が残る。文献学の見地から見ると、15世紀半ばに八重山に漂流した朝鮮民の見聞録にMusa類の存在は記録されていない〔嘉手納1972〕。この見聞録がどこまで信頼できるのか疑わしいが、18世紀の、『参遣状』[1] や『与世山親方八重山嶋農務帳』等の古文書〔石垣市史1995、玻名城1985〕で見ると、18世紀半ばになっても、八重山では糸芭蕉がまだ広がっていなかったため、首里王府が八重山の住民にその栽培を強く勧めているという事が判る。当時(1637年~1903年)、両先島諸島が首里王府に「人頭税」として上布の他に芭蕉宇も納めた。下記は1749年の『参遣状』から引用した〔石垣市史1995: 121頁〕。

又、この文献からは、八重山では糸芭蕉は織物の原料としてはあまり使用されていなかったという事が推測できる。先島では他の植物繊維、特に苧麻が古くから自生しており、先島上布等の織物に広く使用されてきた。現地調査による技術的分野から見ると、先島で20世紀の始め頃まで芭蕉布織りに用いられた技法や道具は、元々苧麻に用いられた技法と道具そのままであった。この事は先島では古くから、糸芭蕉よりも苧麻の方が織物の原料として使われてきたという証拠だと云える。以上述べた植物学的見地、文献学的見地、及び現在の状況調査により、八重山の糸芭蕉は自然分布によるものではなく、南方から琉球列島に漂着したと云う証拠もないと考えられる。

植物学から見ると、琉球列島にはムサ・バルビシアーナという、繊維が採れる芭蕉属が一種しかないため、これは人為的に持ち込まれたと推測できる〔本部町の都市緑化植物園の花城良廣元園長のご教示〕。ムサ・バルビシアーナは中国南部と東南アジア固有の種なので、この2つの地方のどちらから持ち込まれたのかという疑問が残る。

2.     Musa類の繊維から出来る布について

原則として、原料になる糸芭蕉と、それから繊維を採り、布にする技法は同時に同じところから広まったと考察する。フィリピンやインドネシアという東南アジアで見られるMusa繊維で織られた布の作業工程に関する外国語(英・仏・蘭・中など)の古い文献を検証すると、その技法や染料及び柄は、琉球列島の芭蕉布とはかなり違う事が判る。琉球の芭蕉布織りに関する現存の初期の文献である一次資料[2] からは、16世紀中頃、当時の琉球列島の芭蕉布織りが技術的に優れていたという事が明らかになる。東南アジアにおいてMusa繊維から作られた織物に関する上記の文献からは、その織物は、琉球列島の芭蕉布と比べて、粗末で原始的な布だったと伝えている。

現在でも東南アジアにおいてMusa繊維で布が織られているので、芭蕉布織りは東南アジアから琉球列島に入ったというのが一般的に定説になっているが、従来の琉球列島の芭蕉布の研究において、これまで殆ど検証されてこなかった中国の資料からは、中国南部でもMusa繊維で作られた織物の盛んな時期があった事が判る。琉球王国の、1424年から1867年に至る443年間の外交文書を記録した『歴代宝案』の資料は、琉球民が東南アジアの国々よりも中国南部福州との交易の方が明らかに多かったという事を示している。福州との交易が特に多かったという事だけでなく、琉球にいた久米村人の存在も重要である。又、高良倉吉の、『歴代宝案』を基にした14世紀末~16世紀中期の「琉球王国貿易ルート」の地図によると、琉球王国と中国南部福州とは直接な貿易ルートがあったが、フィリピンやインドネシアという東南アジアの国々との直接貿易ルートはなかった〔高良199383頁〕。

技術的側面から見ると、中国資料の『太平御覧』[3](西暦1世紀後期)、『南州異物志』[4](3世紀)や『南方草木狀』[5](4世紀初期)による記録で判るのは、中国南部の人民がMusa類の植物から繊維を採るためにそれを灰汁のようなアルカリ溶液の中で煮たという事である。

中国では灰汁は西暦紀元以前から絹繊維の精練に使われる技法があった。琉球列島でも灰汁は糸芭蕉から繊維を採るために使われるが、東南アジアでは、少なくとも20世紀までは、その方法はなかった。1819世紀の文献資料で見ると、インドネシアやフィリピンではMusa類の植物を煮ずに生の状態で、比較的粗い繊維を採る習慣しかなかった〔詳細はHendrickx 2007161-186頁を参照のこと〕。19世紀の『南島雑話』[6] を検証すると、当時の琉球列島でも生の状態で糸芭蕉から繊維を採る技術があったようだが、それは非常に細かく上質な繊維を採る場合だけに限られた。又、これは当然100%手作業のみなので、非常に難しく、少数の特に器用な職人にしか出来なかったようである〔国分、恵良198454頁、86頁〕。

一次資料と二次資料を検証すると、東南アジアではムサ・バルビシアーナよりもムサ・テクスティリス(Musa textilis[7] というMusa類の方が広く使用されていた事が判る。その学名からすると、そちらの方が織物(テクスタイル、textile)に適切だと思われがちだが、実は琉球列島に見られるムサ・バルビシアーナである糸芭蕉の方がもっと細かい繊維が採れる。東南アジアのMusa類の繊維がムサ・テクスティリスと名付けられた理由は、1819世紀の大陸間貿易でこのMusa繊維の方が他の繊維よりも先に織物やロープの出来る繊維として世界に知られるようになったからであると考えられる。糸芭蕉の学名は長い間、紛らわしくムサ・テクスティリス又はムサ・リュウキュウエンシス(Musa liukiuensis[8] などと名付けられ、ムサ・バルビシアーナという正式な学名は現在でも無視される傾向がある。

植物学から見ると、中国南部はMusa類の原産地である〔Pollefeys et al. 2004〕。沖縄県本部町の都市緑化植物園の花城良廣元園長が中国南部で行った現地調査によると、中国南部と琉球列島に見られるムサ・バルビシアーナは同種である〔花城氏のご教示〕。その上、中国の古文書で「蕉葛」と名付けられている繊維が採れる植物は、織物に一番適切であったとされ〔Kuhn 198848-49頁、Li 197932-33頁、張1956115頁〕、ムサ・バルビシアーナを示すものであると考えられる。又、1721年成立の『中山傳信録』に、1719年に琉球を訪問した清朝の官僚であった徐葆光[9] は、殆どの広袖の着物が「蕉布蕉葛」だったと記録した。その記録からは、首里王府の高位の支配階級が着用していたのは高級な芭蕉布だったという事が判る〔沖縄県立図書館197787頁〕。

上記の論証により、芭蕉布織の技術が中国南部から導入されたという、池宮正治氏が提起した説を裏付ける事ができる。又、植物学者の花城良廣氏の前述した調査結果により、芭蕉布織りの原料であるムサ・バルビシアーナも同地域から持ち込まれたと推定できる。芭蕉布織の起源は「南方」であるという定説は恐らく19世紀末や20世紀の始め頃、フィリピン等からの多量のアバカ繊維、いわゆる「フィリピン芭蕉」が日本へ輸入されるようになったという時代背景から生まれたと思われる。

  3.芭蕉布織りは「なぜ」「どの様に」琉球列島で広まったか

何時、糸芭蕉と芭蕉布織りが中国南部から導入されたかという疑問であるが、これは「なぜ」、それから「どの様に」芭蕉布織りの技術が琉球列島で広がったかという本研究の第二の疑問と密接に関連している。

3.1.     芭蕉布織りについての最古の記録

琉球最古の歌謡集「おもろさうし」には糸芭蕉や芭蕉布織りの記録が見当たらない。18世紀成立の『琉球国由来記』等の歴史資料の中で、琉球の芭蕉布に関する項目に登場する「生熟夏布」という表現を分析すると、芭蕉布織りは14世紀末頃は、まだ琉球王国で行なわれていなかった事が判る〔詳細はヘンドリックス200452-53頁を参照のこと〕。

芭蕉布織りに関する最古の現存の記録は、1546年の『李朝実録』(明宗大王実録)にある。その一部を引用する〔嘉手納1972176頁〕。

上記の記録を検証すると、当時の芭蕉布は高級な織物で、首里王府にて着用されていた。又、同時代の『歴代宝案』の資料によると、芭蕉布の反物が貢物として明朝へ献上されていた。これらの文献の分析により、芭蕉布織りは琉球王国では、恐らく久米村人が琉球に滞在した14世紀末と16世紀中頃の間に導入され発展したと仮定する。又、琉球列島の芭蕉布織りは琉球王国の首里城で始まったと考えられる。それに加え、1609年の薩摩藩の琉球侵略以前、芭蕉布は主に明朝の君主への貢物として使用されたと思われる。

中国の一次資料と二次資料で見ると、中国南部では芭蕉布織りは1世紀まで遡り、地方によって芭蕉布は中国北部の大皇帝朝への納税物として使用された〔張1956106-107頁、115頁、Kuhn 198815頁、51頁〕。中国南部の芭蕉布織りが次第に衰えた原因は恐らく中国での絹織りの発展だと思われるが、この課題は本研究の領分を越えるので、省略する。又、中国内の芭蕉布の需要に対応するためにこそ、中国南部出身の久米村人が意図的に芭蕉布織りを琉球人に伝えたのではないかと仮定する。

上記の論証のため、琉球列島の芭蕉布織りが首里王府で発展し、芭蕉布は最初、明朝への貢物であったという、池宮氏が提起した事が証明される〔池宮199827頁〕。

3.2.     芭蕉布の歴史の4つの時代

 本研究の第二の疑問に対する調査結果としては、琉球列島の芭蕉布の役割と意義が社会的・政治的な影響を受け、大幅に転換した歴史の時代を四つ定義した。

芭蕉布の歴史的発展の第一の時代は芭蕉布織りが久米村人の影響で首里王府にて発展し、高級な芭蕉布が貢納物として明朝へ献上された、15世紀から17世紀初期にわたる期間である。この時代には、芭蕉布織りは恐らく首里王府から任命されたノロ神によって奄美諸島へも伝わったと思われる〔久万田2002〕。奄美の芭蕉布織りの工程を詠んでいる「バシャナガレ」というノロの呪詞が語る糸芭蕉の「天来」の起源は首里王府を意味すると考えられる[10]

芭蕉布の歴史的発展の第二の時代17世紀中頃の、中国の明朝の衰退から始まり、19世紀後半までの期間である。この時代には芭蕉布織りは寧ろ琉球列島内で発展した。『琉球国由来記』等の古文書によると、17世紀中頃に高級な芭蕉布は王子や按司の朝衣となった。これは、明朝の衰退及び、薩摩藩による明・琉球貿易の独占のため、17世紀前半、中国の高級な絹布が首里王府の手に入り難くなったからと考えられる。奄美市立奄美博物館やドイツ国立ベルリン民族学博物館で保管されている、非常に細かい高級な芭蕉布は以前中国から入った絹布の替わりとして発達したと思われる。

1720年以降の『歴代宝案』の資料で見ると、当時の清朝へ献上された芭蕉布の反物の数量が随分と減少した事が判る。又、薩摩藩は本土で芭蕉布より薩摩上布として売れた苧麻による先島上布の方を好んでいた。絹布のように微細で艶のある高級な芭蕉布は次第に首里王府の威信の象徴となった。しかし、1879年の「琉球処分」後、王子や首里王府の高位の役人とその夫人たちに着用されていた上記の高級な芭蕉布作りは急速に衰えた。それは、1884年、ドイツ領事が明治政府から琉球の朝衣を購入した事は、このような衣装が用途を失ったため、織られなくなり、貴重なものになったという証拠になるだろう。

芭蕉布の歴史的発展の第三の時代は、部分的に第二の時代に重なり、18世紀から20世紀初期にかけて、琉球列島全域での庶民による芭蕉織りの発展そのものである。前述のとおり、古文書は、17世紀末頃から首里王府が先島で糸芭蕉の栽培と芭蕉織りを奨励していた事を示している。様々な理由がその原因として考えられるが、主な理由は、薩摩藩の琉球侵攻後、地元の優れた上布を薩摩藩が非常に所望した事である。特に先島では、上布は首里王府への納税として主要な品目となり、その大部分が薩摩藩に与えられた。首里王府が庶民への糸芭蕉の栽培と芭蕉織りを奨励したのは恐らく、地元の人々の織物繊維の不足を補う事を意図していたと思われる。王府が糸芭蕉の栽培を奨励した別の考えられる理由は、より一般的な有用性である。例えば、先島内部資料の用紙は、糸芭蕉の繊維で作られていた。又、糸芭蕉は苧麻とは異なり、栽培が容易であり、台風にも耐えるため、小さな作物栽培時の防風にもなった。

このように、18世紀末、特に19世紀には、糸芭蕉は琉球社会のすべての階級と琉球列島全体で主要な繊維材料になった。しかし、19世紀に始まった工業化は、機械紡績糸の輸入、及び地機から高機への変更を生み出し、20世紀初頭からの庶民による芭蕉織りの衰退にかなりの影響を与えた。輸入された新しい繊維や糸、ならびに綿や絹など、琉球王国時代に、庶民には禁止されていた繊維が、庶民でも使用できる時代になった。この事により、多くの織り手が長い時間のかかる糸作りの作業から解放され、少なくとも経糸に機械紡績糸を使用した事は想像に難くない。特に高機を使うと、経糸に強いテンションがかかるので、丈夫でなければ非常に織り難い。そのような丈夫な経糸を手で作るのは困難な作業である。

芭蕉布の歴史的発展の第四の時代は、第二次世界大戦の終わり頃から現在までの期間である。この時期は、芭蕉布は日本の文化財として発展し、特徴付けられる存在になる。第二次世界大戦直後、八重山諸島の小浜島や奄美諸島の与論島のような小さな島では、芭蕉布織りは、直ちに途絶えた訳ではなく、しばらく継続された。その主な理由は、これらの場所では、糸芭蕉のみが容易に入手可能な繊維材料となっていたからである。沖縄本島では、沖縄戦により完全に破壊された村や都市の再建(特に本島の中部と南部)の時代になり、地元の多くの人々は手織りの仕事から他の有利な仕事に切り替えた。又、アメリカ軍人とその家族のライフスタイルや、手頃な価格で入手可能になった大量生産布と洋服の普及も、直ぐに沖縄の人々のライフスタイルに影響を及ぼした。

1950年代には、平良敏子は喜如嘉で途絶えつつあった芭蕉布織りの復活に専念するようになった。彼女は、第二次世界大戦前に、喜如嘉の芭蕉布の保全のために努力した祖父と父、並びに日本の民芸運動の支持者である外村吉之介、その精神的指導者である柳宗悦の『芭蕉布物語』(1943)により励まされた。柳や民芸運動のアイディアは芭蕉布の復活に多大な影響を与えた。沖縄の本土復帰2年後の1974年に「喜如嘉の芭蕉布」が文化庁により日本の重要無形文化財の一つとして指定された事は、間違いなく、芭蕉布の県外へのプロモーションとなり、その商業的需要の急速な増加を生み出した。更に、芭蕉布は、十分な品質を保つため、文化財保存会が定めた、「100%糸芭蕉の繊維でなされるべき」となっている。

4.    考察

本研究は、日本の一次、二次文献資料の他に、中国と欧米の文献資料の調査も加えて、琉球列島内の芭蕉布織りと東南アジアのMusa類の繊維を使った織物の比較、歴史学、植物学、芭蕉布の染織技法の伝播などの異なる分野を併せて考察し、琉球列島における芭蕉布の歴史に関する新しい視点を提供する。その中で、中国の文献資料と植物学の調査から得た情報が本研究には最も貴重であった。

芭蕉布織りの技術は中国南部から首里王府に導入され、次第に奄美諸島から八重山諸島まで広まり、時代と場所の制約により、芭蕉布の用途と意義が大きく変化した。歴史を通して、琉球・沖縄が、中国と日本本土との政治的・文化的な繋がりに強く影響されてきた物質文化の例であると云える。

現在の、一般的な芭蕉布の印象は比較的粗いものである。それは、琉球舞踊の中で、琉球王国時代後期の庶民や農民を表している場面を目にする機会が多いからではないだろうか。しかし、芭蕉布は粗い布であるという、その現在のイメージは、ドイツのベルリンや奄美大島に保管されている非常に微細な芭蕉布を確認すれば、芭蕉布の歴史的・文化的概念において、特定の期間の一面だけを表しているという事が判る。琉球王国時代に支配階級が着用していた、微細な芭蕉布の存在は集団的無知の的となっている。

おわりに

過去に奄美でも微細な芭蕉布が織られたのに、現在では、芭蕉布と言っても、奄美諸島を思い浮かべる事は少なく、特に喜如嘉や人間国宝となられている平良敏子氏とリンクされる。現在の芭蕉布織りは、「沖縄」を代表する「日本の重要無形文化財」となり、「日本文化の多様性」を示す物質文化となっている。逆説的であるが、沖縄の人々のための実用的、功利的な布であった芭蕉布は、現在、主に日本本土の数少ない愛好家のための高級工芸品に転換し、通常の沖縄の人々には殆ど手に入らなくなっている。なおかつ、もはや匿名で生産される布ではなく、著名な織手の芸術作品として展示会に出品され、日本本土におけるテキスタイルディーラーにより「地元で採れる天然材料で、昔と変わらない手作業の中で生みだされる芭蕉布」、つまり環境にやさしい伝統工芸品として未定価格で販売されている。



1   首里王府と八重山蔵元の間の往復文書集である。

2  『李朝実録』、『歴代宝案』など。

3  中国宋代初期(977年から983年頃)に李昉により成立した類書である。英訳:Taiping Reign Period Imperial Encyclopedia / The Emperors Daily Readings。〔張1956105頁〕

4   萬震(呉〔三国〕の著。英訳:Records of Strange Things from the Southern Regions

5   嵇含(Ji Han)の著。南越や交趾(現代の中国南部とベトナムの北部)の植物を記述する植物誌。亜熱帯植物に関する、現存する最古の作品である。英訳:Plants and Trees of the Southern Regions。〔Li 197932-33頁、Needham 1986451頁〕

6   幕末の薩摩藩士であった名越(なごや)左源(さげん)()が著した、奄美大島の地誌の総称。

7   現在、それを通常「アバカ (abaca)」や「マニラ麻」などと言う。

8  「琉球のMusa類」という意味で名づけられたはずだが、植物学的には意味がない。

9    琉球尚敬王の冊封(さくほう)副使として琉球にわたり、滞在中の見聞を『中山傳信録』に纏めた。

10  日本・沖縄を対象とした民族音楽学者/民俗芸能論者である久万田氏からの個人的なコミュニケーション。