2008823

沖縄県南城市(元、島尻郡佐敷町)佐敷文化協会主催

口頭発表の内容

(パワーポイントプレゼンテーション)

「琉球列島における芭蕉布のルーツについて」

カトリーヌ・ヘンドリックス(大城)

Katrien Hendrickx

1. 研究テーマについて

私は2000年に東京から沖縄に移住して、芭蕉布の研究を始めたのですが、その時、芭蕉布に関しては、まだほとんど知識がなかったので、その歴史から調べようと思いました。しかし、調べれば調べるほどいろんな論文が出てきて、芭蕉布の歴史についてはあまり明確にされていない事に気がつきました。芭蕉布は沖縄独特のものなのか、芭蕉布織りが外から導入されたかという、様々な疑問が浮かびました。なぜかというと、歴史学者や染織学者などの論文では、これらの疑問については意見が合わないまま論争されています。たとえば、「沖縄学の父」と言われる伊波普猷は「沖縄では芭蕉布は1372年以前から織られていただろう」[1] としていますが、染織学者の田中俊雄は「糸芭蕉が琉球に導入され、それが織物の素材として普及した時期は14世紀から15世紀にかけてではないか」[2] と述べ、歴史学者の名嘉正八郎はその時期はおそらく「16世紀の初期から中期の間だ」[3] と述べています。また、芭蕉布織りのルーツに関する説を纏めてみると、文学者の池宮正治以外は皆、糸芭蕉と芭蕉布織りは、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアの国々から導入されただろうとしています。現在(2008年)では、沖縄の染織や芭蕉布を紹介する論文の中では、この「東南アジア説」が一般的に認められています。

先程述べたように、池宮正治だけは「東南アジア説」に同意しないで、「琉球服飾史の課題」という、1998年に出した論文の中で「恐らく琉球の芭蕉布生産の技術も、産地だった福建から学んだものであろう」[4] と提案しています。池宮が引用する文献は、1637年初刊されたと思われている中国の書籍『天工開物』で、それによると、中国の芭蕉布の産地は南部の福建で、中国南部の芭蕉布は粗悪で、衣服には適切でないものだとされています。

私は池宮氏の論文を読んで、以前、中国でも芭蕉布が織られたという事であれば、池宮の提言は合っているかもしれないと思い、当時琉大の教官であった池宮先生と相談して、先生の提言を裏付けたいと申し出ると、先生に励まされて、これが私の研究テーマになりました。

2. 研究の疑問点

さて、本研究を進めるために、私は2つの疑問点を考えました。

 1.     第一の疑問は琉球列島に見られる芭蕉布の起源に関する疑問ですが、この疑問には、芭蕉布の原料である糸芭蕉の起源と、芭蕉布を織る技術の起源という2つの部分が含まれています。

2.     第二の疑問「なぜ」、それから「どの様に」芭蕉布織りが琉球列島で広がったかという疑問ですが、この疑問も2つの部分が含まれています。まず「なぜ」芭蕉布織りが広がったかという疑問の部分ですが、琉球列島では糸芭蕉よりも、(宮古上布とか八重山上布の原料である)苧麻という優れた原料が琉球列島に自生し、昔から織物に使用されていたのに、「なぜ」芭蕉布の発展も必要だったのかという疑問です。それから「どの様に」芭蕉布織りが琉球列島で広がったという疑問の2つ目の部分ですが、芭蕉布とはどういう存在だったのか、どの様に使われてきたのか、またはどの様に琉球列島の人々に関わり、しかも沖縄を代表する織物というイメージに定着したかという疑問です。

 私はこういった疑問を解明するために研究を進めました。

3. 研究方法

皆さんがご存じの通り、芭蕉布は物質文化です。物質文化に関する研究は、基本的には、物的証拠、それから、その物と関連する技術を検討して行なわれます。しかし、布は根本的に長持ちしないものなので、過去の布の物的・技術的な検証は明確にしにくいものです。特に沖縄の場合には、第二次世界大戦などがあったため、昔の物的証拠は少ないので、芭蕉布の研究の場合は、他の分野も合わせて考える必要があると思いました。

私はまず、芭蕉布その物と芭蕉布織りが現在、どのように残っているかという事を知るために、フィールドワーク、つまり現地調査を行ないました。芭蕉布の産地としては、沖縄本島の大宜味村喜如嘉が一番よく知られていますが、私は芭蕉布の考察を進めるために、喜如嘉以外に、八重山諸島と奄美諸島でも現地調査を行ないました。八重山諸島には4回程行って、石垣島、竹富島、小浜島、波照間島、黒島、西表島、与那国島を訪ねました。それから宮古島もありますが、宮古島は、八重山諸島に行く時の船が中継地点として、宮古島で4時間ぐらい停泊してから八重山に出るので、私はいつもその時間を利用して、何回か宮古島の織物組合を訪ねて、そこの織手や役人たちと芭蕉布に関する話をして調査を行ないました。奄美では奄美大島と与論島だけ尋ねました。海外ではドイツのベルリン郊外にある、民族学博物館の東洋美術科の倉庫と、オランダのレイデン民族学博物館の倉庫で保管されている琉球織物のコレクションも、特別許可をもらって、見学できました。海外で見て一番印象深く感じたのは、ベルリンの民族学博物館で保管されている琉球王府時代の緑色っぽい「絹芭蕉布」でした。このコレクションは1884年前後、ドイツ政府が明治政府から購入した物のようですが、いつ頃織られたのかははっきり知られていません。ご覧のように素晴らしい光沢があって、絹のような細かい芭蕉布なので、「絹芭蕉布」といわれています。私はこの芭蕉布の着物を30倍拡大する顕微鏡で観察しましたが、間違いなく芭蕉布でした。これが人間の手で創られたと思うと大変感激しました。

文献調査も勿論行いました。文献調査は主に沖縄県立図書館と琉球大学の附属図書館で行ないましたが、現地調査を行なった各地域でも、なるべく沖縄本島にはなさそうな芭蕉布に関連する文献や史料を蒐集しました。文献としては、たとえば、琉球王府が編纂させた『琉球国由来記』(1713年)や琉球王国の外交文書を記録した漢文史料『歴代宝案』(14241867)等々の琉球史料をたくさん閲覧しましたが、芭蕉布のルーツを解明する適切な資料が琉球に十分にはありませんでした。そのため、琉球文化圏以外の文献資料、たとえば琉球王国の外からの訪問者の物語など、可能な情報源として検討しました。また、東南アジアや中国で、芭蕉属の繊維で織られた布に関する中国や欧米の文献資料もできる限り検討しました。このような文献の中で、後でもう少し詳しく述べますが、中国の資料は本研究にとっては貴重な存在となりました。

しかし、文献資料だけで得られない情報も多いため、可能な情報源として地図・絵図、絵画、写真などビジュアルなものである図像資料及び伝承されてきた風俗・習慣・伝説などの民俗資料という歴史資料も視野に入れました。それから、文献資料や歴史資料を調査する時に、歴史的な背景を十分把握しなければ、難しいものです。特に私は学生時代から、専攻は文学部の東方学科のなかの「日本学」なので、大学では日本本土の歴史は学んで、ある程度知っていましたが、その中の琉球・沖縄の歴史を取り入れている大学はヨーロッパでは当分(19801990年代)まだ少なかったので、私は沖縄に来る前には、沖縄の歴史の知識は殆どなかったのです。主に参考したのは、たとえば高良倉吉、田名まさゆきや豊見山和行という歴史学者の論文や本と、それと『高等学校・琉球・沖縄史』という教科書です。

技術的な面では、私は20005月、沖縄に来てすぐでしたが、読谷村の歴史民俗資料館で展示されている芭蕉布の着物を観察しに行った時に、偶然でしたが、本資料館の近くに芭蕉布工房を持っている方と知り合いました。その工房の経営者は以前、喜如嘉の芭蕉布の平良敏子先生のところで4年間芭蕉布作りを習って、現在独立していますが、私に「芭蕉布の研究するのであれば、是非糸作りまでの作業工程を体験してほしい」と言ってくれて、私はお陰様でその時から8ヶ月ぐらい、その芭蕉布工房に通い、糸芭蕉の倒しから糸績みまでの実地訓練の体験ができました。芭蕉布織りまでは経験していません[5] が、いろいろな糸を染めて織る技法は、首里にある首里織専門工房で体験できて、この2つの体験は、人類学的に言うと「参加観察法」というのですが、これも私の芭蕉布の研究にとっては重要でした。

最後に、芭蕉布の原料は植物である糸芭蕉なので、そのルーツを検討するために、必ず植物学で得る情報も視野に入れなければならないと思いました。植物学について、私は全くの素人なので、植物学者の調査研究報告書を調べたり、それと直接に植物学者に相談したりしました。こういう事でも、この芭蕉布の研究にとって大変貴重な情報を手に入れる事が出来ました。

4. 研究の成果の概要

本研究の成果は、数多くの意味で密接に関連していますが、出来る限り先ほど提言した疑問点を別々に扱います。

第一の疑問は、ちょっと繰り返しますが、琉球列島に見られる芭蕉布の起原に関する疑問で、芭蕉布の素材である糸芭蕉の起原と、芭蕉布を織る技術の起原という2つの部分から成っています。先ずは糸芭蕉の起原について述べたいと思います。沖縄県では現在、実芭蕉(バナナ)には様々な品種がありますが、琉球列島に見られる糸芭蕉の品種は1つしかなく、後ほど改めて触れますが、その学名はMusa balbisiana [6] です。また、植物分布に関する現在 [7] の調査研究報告書によると、琉球列島を含む日本はアジアに見られる芭蕉属のMusa類が一般に容認されている分布境界線の中に位置しません(Pollefeys et al. 2004, 4それと、現在 [8] の研究報告書によると、この糸芭蕉の原料であるMusa balbisianaという品種の原産地は東南アジアと中国南部のようです。この3つの事から判りますが、琉球列島に見られる糸芭蕉は土地に固有の植物でないという事です。

では、芭蕉布の原料であるこのMusa balbisianaが「どのようにして」琉球列島に入ってきたのかという問題に関しては、記録がないので、はっきりした結論を述べる事はできませんが、一般的な植物分布に関しては諸説があります。これらは3つに大別できて、1つは自然分布説、もう1つは漂着説、それともう1つは人工的に持ち込まれたという説です。最初に述べた「自然分布説」によると、簡単に言うと、糸芭蕉は元々琉球列島にあったという事になりますが、以上述べた研究報告書によると、そうではないという事なので、糸芭蕉の場合は自然分布は成り立たない事が判ります。

「漂着説」によると、様々な植物が中国南部からインドシナ半島・マレー半島・ボルネオ等を渡ってフィリピン周辺に伝わり、台風の後、黒潮等の海流によって琉球列島に漂着したという事です。この植物分布説は前に述べた、芭蕉布の「東南アジア説」とマッチしそうなので、まずはこの理論を検討しました。もしMusa balbisianaは台風や黒潮等の海流によって東南アジアから琉球列島に漂着したとすれば、この種類は八重山に漂着して、大昔から八重山諸島にあって、そこから沖縄本島に入ったという事になります。西表島の山は糸芭蕉が豊富なので、八重山には古来から糸芭蕉があったのではないかと言う人がいますが、私は実際に糸芭蕉を植えてみて、その体験によると、糸芭蕉が実芭蕉よりも、株が非常に広がりやすく琉球列島の亜熱帯気候に合っているので、西表島の山の糸芭蕉は、その古来の存在の十分な証拠にはならないと考えます。それと、文献学の見地から見ると、15世紀半ば八重山に漂着して2年間位八重山諸島にいた朝鮮民の見聞録が『李朝実録』[9] という韓国の文献資料に載っていますが、それを検討すると、Musa類の記録が全くありません。この見聞録はただの旅人の記録みたいな物で、どこまで信頼できるのか疑わしいのですが、糸芭蕉などの芭蕉属の植物はかなり目立つので、もしそれがあったのなら、記録されたのではないかと思われます。また、18世紀の『与世山親方八重山嶋農務帳』や『参遣状』等の琉球の古文書で見ると、18世紀半ばになっても、琉球王府が八重山の住民に糸芭蕉の栽培を強く勧めているという事から、当時、八重山では糸芭蕉がまだ広がっていなかったという事が判ります。先島では苧麻という原料が先島上布等の織物に広く使用されてきましたが、技術的分野から見ると、先島では20世紀のはじめ頃までには、糸芭蕉に用いられた技法や道具は元々苧麻に用いられた技法と道具そのままでした。これは先島では古くから、糸芭蕉というよりも苧麻の方が織物の繊維として使われてきたという証拠だと思います。糸芭蕉が古くから先島にあったのに織物に使用されていなかったという事は考え難いと私は思います。16世紀中頃(1546年)の『李朝実録』には芭蕉布の記録がありますが、それは琉球王府の支配階級の衣服に関する記録で、八重山諸島の事ではありませんでした。

以上、簡単に纏めましたが、主にこのような理由のため、先島には古くから糸芭蕉はなかった事と、18世紀以前、先島では芭蕉布が織られていなかったかもしれないと私は考えます。また、先程述べたように、琉球列島にはMusa balbisianaという芭蕉属の一種しかないため、これはおそらく人によって運ばれた植物だと推測できます。

では、Musa balbisianaは東南アジアか中国南部という、この2つの地方のどちらから導入されたのかという疑問が残ります。私は糸芭蕉の原料と、芭蕉布を織る技法は同じところから持たされたと考えます。しかし、フィリピンやインドネシアという東南アジアの国々で見られる芭蕉属のMusa類から織られた布の作業工程を検討すると、その糸作りの技法及び、織物に使われる染料や柄は、琉球列島の芭蕉布とかなり違う事が判ります。また、琉球の芭蕉布織りに関する初期 [10] の文献と、当時の東南アジアの芭蕉属のMusa類から織られた布に関する文献と比べると、フィリピンやインドネシアで作られた織物は粗末で原始的な布で、琉球列島の芭蕉布の方が技術的に優れていたという事も明らかになります。

池宮正治氏が引用した17世紀の『天工開物』という文献資料によると、当時の中国でも芭蕉布が織られていました。また、張德鈞の著した「两千年来我国使用香蕉茎纤维织布考述」(1956年)という中国の文献によると、中国南部では芭蕉布織りは西洋暦の1世紀まで遡り、少なくとも17世紀まで行われたという事です。それに、唐と宋時代(7世紀~13世紀)に絹織りよりも評価が高かった、非常に細かい芭蕉布が織られて、これが中国南部の住民が中国北部へ貢物として納めていたという事と、芭蕉布織りが盛んだった地域は中国南部の広東、広西、福州と建州(つまり福建だったという事が判ります。また、技術的な面でこの中国の資料から判るのは、中国南部の人民が芭蕉属の植物から繊維を採るために、その繊維を灰汁の溶液の中で煮たという事です。上記の事は本研究に貴重な情報です。琉球列島でも灰汁は糸芭蕉の繊維を採るために使われていますが、東南アジアでは現在でもそうではないし、昔の文献を見てもそうではなかったようです。18~19世紀の文献資料と絵図で見ると、インドネシアやフィリピンでは芭蕉属の植物を煮ずに生の状態で粗い繊維を採る習慣しかなかったようです。19世紀の中頃の琉球で織られた芭蕉布の作業工程を描いている、幕末の薩摩藩士であった名越左源太が作成した『南島雑話』(19世紀中頃)や1927年に斉藤貞治が纏めた「沖縄糸芭蕉及芭蕉布に関する研究」などの文献資料や絵図を検討すると、首里と奄美大島では、現在と同じように、糸芭蕉の茎の皮を灰汁で煮てから繊維を採って、それを乾かして、細かく裂いてから1本の長い糸に「績む」という作業工程が一般的でした。同じ資料によると、当時、琉球列島でも生の状態で糸芭蕉から繊維を採る技術があったようですが、それは非常に細かく上質な繊維を採った場合だけで、特に器用な、わずかの人々しか出来なかったようです。こういう上質な技術を使った芭蕉布は非常に細かい物だったようで、おそらく先程述べた「絹芭蕉布」のようなもので、これはフィリピンなどで見られていた芭蕉布と比べがないと思われます。以上述べた資料からは、琉球列島の芭蕉布の糸作りの作業は中国南部でのやり方と同様で、東南アジアでのやり方と違うと判ります。

東南アジアでは昔から織物に使用されたのは、アバカという、もう1つの芭蕉属の植物繊維です。アバカの学名はMusa textilisで、この名前から見ると、Musa textilisの方が織物(テキスタイル)に適切だと思うかもしれませんが、アバカはMusa textilisと名付けられたのは、恐らく18~19世紀の大陸間貿易でロープなどが出来る繊維として知られるようになったからです。糸芭蕉のルーツが東南アジアにあるという説はおそらく19世紀末や20世紀の始め頃、フィリピンや台湾から多量のアバカ繊維が「フィリピン芭蕉」という名前で沖縄へ輸入されていたという事情で生まれたのではないかと思われます。この様な理由で、琉球列島に見られる糸芭蕉の学名は、長い間紛らわしくMusa textilisまたはMusa textilis var. Liukiuensisなどを名付けられましたが、Musa balbisianaである琉球列島の糸芭蕉がもっと細かい繊維が出来て、Musa textilisと違う品種です。また、中国の文献資料によると、「蕉葛」と名付けられていた芭蕉属の植物が織物に一番適切だとされており、1719年に琉球を訪問した中国の冊封使徐葆光の著した『中山傳信録』には、多くの着物はこの蕉葛から作られた「蕉布」だったと記録しました [11]。この記録からは、この「蕉布」は琉球王府の支配階級が着用していたので、高級な芭蕉布だったという事が判ります。ここで言いたいのは、琉球列島で使われている芭蕉布の原料である糸芭蕉の品種は、東南アジアで織物に使われている植物と違う品種ですが、中国南部でMusa balbisianaも使われていたと考えます。

上記の論理に加えたいのですが、歴史学者の高良倉吉の「琉球王国貿易ルート」[12] によると、歴史上では、琉球王国と中国南部福州との直接な貿易ルートがありましたが、フィリピンやインドネシアなどという東南アジアの国々とは、直接貿易ルートがなかったのです。それと、『歴代宝案』という琉球資料は、琉球民が、東南アジアの国々よりも、中国南部との交流の方が圧倒的に多かったという事を示しています。歴史上では、琉球王国が中国南部の福建との交渉が特に多かったという事だけでなく、14世紀の末ごろから琉球にいた久米村人の存在も重要です。

私は、簡潔に纏めましたが、上記の主な論証を通して、芭蕉布織は糸芭蕉と共に中国南部から導入されたという裏付けました。

「いつ」糸芭蕉と芭蕉布織りが中国南部から導入されたかという疑問が起きますが、これは「なぜ」、それから「どうやって」芭蕉布織りの技術が琉球列島で広がったという、この研究の第二の疑問ときっちり関連しています。文献資料で見ると、たとえば『おもろさうし』という琉球の最古の歌謡集には糸芭蕉や芭蕉布織りに関する記録が見つかりません。私が以前出した和論文[13] に載せた表を見ると解かりますが、琉球の芭蕉布織りについて残っている最古の記録は、先ほど述べた16世紀の『李朝実録』にあります。その記録によると、当時もうすでに高級な芭蕉布が織られて、琉球王府の支配階級に着用されていました。この記録と『歴代宝案』の資料で調べると、当時の芭蕉布は高級で、琉球王府に貢物として明朝へ送られていたようです。また、琉球資料を分析すると、時間の制限のため簡潔にしますが、芭蕉布織りは14世紀末頃はまだ行なわれていなかった事が判ります。芭蕉布織りはおそらく久米村の人が琉球に到着した14世紀末後、つまり早ければ15世紀前半から、最初は琉球王府の拠点となった首里城の中又はその周辺で発展したと私は考えます。

本研究の第二の疑問、つまり「なぜ、どのようにして、芭蕉布織りが琉球列島で広がったか」という疑問に関する成果に加えて、芭蕉布の歴史を四つの期間に分けられると考えます。

第一の期間は15世紀初期から17世紀初期(つまり1609年の薩摩藩の琉球侵略以前)にわたる期間ですが、その時代に芭蕉布織りが琉球と中国南部との間の交流で首里城で発展し、『歴代宝案』で判りますが、次第に高級な芭蕉布が貢納物として中国の朝延へ献上された時代です。先程述べましたが、中国南部の芭蕉布は中国北部の大皇帝朝への納税物として使用されましたが、中国南部の芭蕉布織りが次第に衰えたようです。その原因はおそらく中国での絹織りの発展だと思いますが、中国福建省出身の「久米三十六姓」[14] とも呼ばれている人たちが中国内の芭蕉布の必要に対応するために、意図的に、芭蕉布織りを琉球人に伝えたのではないかと私は考えます。なお、奄美では芭蕉布はノロ衣装として使われたという物質的な証拠が残っています。また、「ばしゃナガレ」という奄美民謡が語る糸芭蕉の「天来」はおそらく琉球王府を意味して、この時代には、芭蕉布織りは琉球王府から任命されたノロに奄美諸島へ伝達されたと考えます[15]

第二の期間は17世紀中頃から19世紀後半に至ります。この時代には芭蕉布織りはむしろ琉球列島内で発展しました。『琉球国由来記』等の琉球の古文書によると、17世紀中頃には高級な芭蕉布が王子や按司の朝衣となったのですが、これは、明朝の衰退及び、薩摩藩による明と琉球の間の貿易の独占のため、17世紀前半からは、その時まで琉球王府の衣装に使われていた中国の絹布が手に入り難く、珍しくなったからだと私は考えます。奄美市立奄美博物館やドイツ国立ベルリン民族学博物館で観た、非常に細かい高級な芭蕉布は、以前中国から琉球王国に入った絹布の替わりに発達させられたと思われます。『歴代宝案』で判りますが、清朝(16441912)へ献上された芭蕉布の数量がずいぶん減少しました。このように、私が「第二の期間」と定義した時期には、微細で絹布のような艶のある高級な芭蕉布は、絹の替わりに琉球王府の威信の象徴となったのではないかと考えます。

第三の期間は第二の期間と部分的に重なりますが、18世紀から20世紀初期までに渡ります。この時代に、芭蕉布織りは琉球王府から琉球列島(八重山諸島~奄美諸島)の庶民へ流布しました。18世紀の『農務帳』などで見ると、琉球王府が八重山の住民に糸芭蕉の栽培と芭蕉布織りを強く勧めているという事が判ります。先島では元々苧麻という原料が織物に広く使われていたのですが、当時、琉球を占領していた薩摩藩は苧麻による先島上布を高く評価していたため、それを本土で薩摩上布として販売していたようです。そのため、琉球の庶民は苧麻による上布を税金の変わりに納めなければならなくなり、苧麻が庶民の衣装に不足してきて、琉球王府が糸芭蕉の栽培と芭蕉布織りを進めたと思われます。糸芭蕉は琉球列島の亜熱帯気候にとてもよく合うので、苧麻など元々琉球列島に自生していた植物よりはずっと育ちやすく広がりやすく長い繊維が出来るので、糸芭蕉が庶民の衣装として欠かせない繊維となったのは18世紀からだと私は考えます。

第四の期間は第二次世界大戦から現在まで至ります。戦前から「民芸運動」の中心人物であった柳宗悦とその同人一行は、沖縄の民芸の美を求めて、4回来琉し、各地で調査しました。彼らは沖縄の陶器や織物などの伝統工芸を広く世に知らせようとして、その成果としては色々な書籍が刊行されましたが、その一つは柳宗悦が著した『芭蕉布物語』(1943年)です。小さい本ですが、この『芭蕉布物語』が沖縄の戦後の芭蕉布織りの復興に果した役割は極めて大きいです。2000年に「人間国宝」に認定された喜如嘉の平良敏子氏は、当時『芭蕉布物語』を読むことによって芭蕉布を再認識し、その復興への決意を固めたようです。戦後、平良敏子氏と喜如嘉の婦人たちの努力により、沖縄復帰の直後(1974年)、芭蕉布織りが「日本国の重要無形文化財」に指定されました。この事で芭蕉布の価値は徐々に高まって、沖縄の一般の方々にとって手に入れにくくなって、改めてエリートの物になったような展開となりました。この時、芭蕉布は「沖縄の文化的な象徴」ともなったと云えます。

このように、琉球列島における芭蕉布の役割と意義は、歴史を通して社会的、それと政治的な転換のために、大幅に変更したという事が分かると思います。

以上が、簡潔に述べましたが、本研究の主な成果です。

5. 本の構造

次に、本 [16] の構造について述べたいと思います。出版した本の構造は、博士論文 [17] の構造と一緒ですが、本文は4つの章に分けられています。

第一章は琉球・沖縄の歴史的な背景と主な琉球(文献)資料について語ります。これは英論で、西洋人向けなので、この部分が必要と考えました。

第二章は芭蕉布と関連する琉球と日本の文献資料の分析です。原文の参考した部分とその英訳を多く載せて分析しました。

第三章は東南アジアや中国南部でMusa類の繊維で出来た布の事を述べますが、これらの布は琉球列島の芭蕉布とどう関連しているかという事を示すために調べました。この比較研究を通して、糸芭蕉と芭蕉布のルーツに関する広まった「東南アジア説」と比べて、新しい「中国南部説」を確認する事が出来ました。

第四章は現在の芭蕉布の事を語ります。この章の中では、自分のフィールドワークや技術的な体験を元にした芭蕉布織りの作業工程を書きました。

次に、6年間集めた情報をこの四つの章に分けて整理した本研究の成果を10枚ぐらいの「纏め」で発表しました。

最後に、文献リスト及び添付資料がありますが、参考した重要な歴史資料のコピーやフィールドワークの時に採った写真を載せました。

以上で発表を終わりたいと思います。

皆さん、ご静聴、ありがとうございました。

 

本発表の主な参考文献

池宮正治  「琉球服飾史の課題」『首里城研究419-36頁(1998

伊波普猷  『古琉球紅型解題』1928

伊波普猷  『をなり神の島』1938(服部四郎編『伊波普猷全集 第5巻』1974

沖縄県立図書館 編  徐葆光著 中山傳信録 下巻」(郷土史講座テキスト冊封使使録集 111977

久万田晋  「奄美における芭蕉布生産叙事歌とその文化的背景」『沖縄染織研究会通信』251-162002

斉藤貞治  「沖縄糸芭蕉及芭蕉布に関する研究」『沖縄県農会報260-64頁(1927

高良倉吉  『琉球王国』岩波書店、20011993

田中俊雄・田中玲子  『沖縄織物の研究』1976

張德鈞  「两千年来我国使用香蕉茎纤维织布考述」『植物学Journal of Integrative Plant Biology第5巻、第1103-116頁(1956

名嘉正八郎  「十五・十六世紀ならびに十七世紀の琉球服飾―苧布・芭蕉布を中心に」『琉球の城』1993

名越左源太  『南島雑話:幕末奄美民俗誌 下巻・上巻』国分直一・恵良宏編 1984

ヘンドリックス、カトリーヌ  「琉球列島における芭蕉布と糸芭蕉について」『沖縄文化97号』(第391号)51-85頁(2004

柳宗悦  『芭蕉布物語』(私版本)1943

 

Pollefeys, P., S. Sharrock, E. Arnaud.  Preliminary analysis of the literature on the distribution of wild Musa species using MGIS and DIVA-GIS. Ministry of International Relations, 2004.

Kuhn, Dieter.  Science and Civilisation in China: Volume 5, Chemistry and Chemical Technology; Part 9, Textile Technology: Spinning and Reeling. (ed. Joseph Needham) Cambridge University Press, 1988.



[1] 伊波1928:1頁;伊波1974121

[2] 田中197691

[3] 名嘉1993224-230

[4] 池宮199827

[5] 2007年に南風原の沖縄工芸指導所で縦絣の研修を受けた時、自分の育った糸芭蕉の繊維を緯糸として使ったが、経糸は木綿だったので、芭蕉布とは言えない。

[6] Musa balbisiana1820年に初めてイタリア人の植物学者Luigi Aloysius Collaによって科学的に述べられたので、Musa balbisiana L.A. CollaMusa balbisiana Collaとしても知られている。

[7] 2000年代

[8] 同上

[9] 正式には『朝鮮王朝実録』という、李朝の太祖から哲宗までの歴史を編年体で記録した書籍

[10] 16世紀半ば

[11] 「(…)多以蕉布蕉葛爲之(…)」(沖縄県立図書館編197787頁)

[12] 高良199383

[13] ヘンドリックス200476-80

[14] 1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されて、その後三百年間にわたり閩から渡来して、首里・那覇士族から迎え入れた中国人の事

[15] 久万田(パーソナルコミュニケーション)

[16] The Origins of Banana-fibre Cloth in the Ryukyus, JapanLeuven University Press, 2007

[17] Bashôfu : banana-fibre cloth and its transformations of usage and meaning acrosse boundaries of place and time in the Ryukyu ArchipelagoPh.D論文、ルーヴェン・カトリック大学、ベルギー王国)