第2部 文献資料のレビュー

第1    琉球列島における染織に関する文献資料

第1節    琉球列島における衣服や織物に関する最初の文献資料

 琉球王国時代(1519世紀)以前の衣服や織物に関する資料は非常に稀である。既存する最古の記録は、7世紀の中国の史書『隋書』の「流求國」に初出する。現代の歴史学者はここに使われた「流求」という漢字は「琉球」の早期の筆写である事に同意するが、その「琉球」は、現在の琉球列島なのか台湾なのか、その両方の地域を含む領域を指すかという疑問に関しては同意していない[1]。どちらにしても、その全ての領域で同様な習慣が存在していた可能性があると思われるので、上記の記録は検討の価値があるだろう。その中では、衣服や織物に使用されていた繊維に関する項目は次の通りである。

引用文[2]

                    男女皆以白紵繩纏髮,從項後盤繞至額。
                    其男子用鳥羽為冠,裝以珠貝,飾以赤毛,形製不同。
                    婦人以羅紋白布為帽,其形正方。
                    織鬥鏤皮并雜色紵及雜毛以為衣,製裁不一。
                    綴毛垂螺為飾,雜色相間,下垂小貝,其聲如珮。
                    綴鐺施釧,懸珠於頸。織藤為笠,飾以毛羽。

読み下し文[3]
                   男女皆な白き紵の縄を以て髪を纏め、項の後従り盤綾して額に至る。
                    其の男子は、鳥羽を用いて冠と為し、装うに珠貝を以てし、飾るに赤毛を以てするも、形製同じからず。
                    婦人は羅紋の白布を以て帽と為す。其の形は正方なり。
                    鬥鏤の皮并びに雜色の紵及び雜毛を織りて、以て衣と為すも、製裁一ならず。
                   毛を綴り、螺を垂れて飾と為し、雜色相間わり,下に小貝を垂らす。其の声は珮の如し。
                   鐺を綴り釧を施し、珠を頸に懸く。藤を織りて笠を為し、飾るに毛羽を以てす。

 上記の男女のヘアスタイルは、20世紀初期まで琉球列島で見られる、「かんぷう」という頭の上に髪を束ねる風習を指す事があり得る。頭飾りとして羽、又は貝やビーズなどのチェーンやブレスレットの使用についての記録は琉球と関連する他の一次資料にも記載がある。例えば、名越左源太の『南島雑話』に載せられている絵に見られるように、琉球王国時代の「ノロ」(祝女)が儀式の際に装飾品として羽を頭に被っていた[4]。これと同様な風習は日本本土及び他の東アジアや東南アジア諸国でも見られたようである。[5] 
織りに使用されていた繊維に関しては、上記の「白紵繩纏髮」中の「白紵(の)縄」は、おそらく後述する「苧麻(ちょま)」の事を指すと一般に思われている[6]。衣に為す「雜色紵」や「雜毛」はどのような繊維だったのか、ガジュマルの皮以外に他の樹皮も使用していたのか分からない。「藤」の存在はやや驚くべき事である。「雜色」を出すために使用されていた染料についても情報がない。繊維は染色して使っていたのか、自然な色が付いたまま使っていたのか、様々な未回答の疑問が残っている。
 10世紀の北宋時代の類書『太平広記』にも布についての記載を含んでいる「畱仇國」という記録がある。ここでも、「畱仇」は昔の沖縄(琉球)を指すのか否か論争されている。その記録は下記の通りである。

引用文[7]
                雜物産與中國多不同緝木皮為布甚細白幅濶三尺二三寸亦有細斑布幅濶一尺許

読み下し文[8]

              (琉球は)物産を雑え、多くは中国と不同なり。木の皮を緝ぎ、甚だ細く白く、幅、濶さ三尺余の布を為る。細斑布有り。幅の濶さ一尺許。

上記の記録にある「木皮」は、苧麻の事だとは想像しづらい。何故ならば、苧麻はイラクサ科の植物で、木のような外形が全くないからである。そのため、ここで糸芭蕉の事を考慮するべきだと久貝が言う[9]。糸芭蕉は確かに木のような植物ではあるが、ここの「木皮」という表現は、使用されていた繊維の種類を定義するには曖昧すぎると私は考えている。

 上記の布のサイズに関しては、古代中国の小尺は約24.6 cm、大尺は約29.4 cmだったと認める場合には、「三尺二三寸」の幅は約80㎝~95㎝であろう。戦前の地機や腰機で織られたものは約38㎝であったと言われている。グスク時代(12世紀頃~15世紀前半)以前の人々は、高度の比較的1713に高いフレーム式の機はまだ使用していなかったと考える。しかし、こんなに幅の広い布は、フレーム無しの織機又は垂直織機で織られた可能性がある。垂直織機は釣り網などの目の粗い布地のために特に適している。「木の皮」を使って、それを「布に為した」とあるが、織られたとは書いていないので、様々な木の皮が道具を使わないで布に編まれた可能性も十分あると私は考える。「細斑」は、漢字又は文章のコンテキストからは、染色の技術又は製織の技術によって得られた模様なのかを知る事は出来ない。6世紀・7世紀に遡るいくつかのアジア地域の絣(かすり)の証拠があるので、「斑」が絣模様を指す可能性がある[10]

琉球王国の地誌である『琉球国由来記』(年)の巻三「事始 乾」に記載されている「衣服門」に琉球の最も古い時代の衣服や織りについて次のように書かれてある。

引用文[11]

                    衣服

                    当国、衣服者、天孫氏世代始。而其後世、漸次織術之功依勝、為美者也。
                    洪武十六年癸亥、(二字欠) 察度王、始通中国() 洪武皇帝、賜金印章服  至ニ清朝一明服也

読み下し文(保留中)

  上記の記録によると、琉球での織りの技術は、琉球の天孫氏王統の世代(=神話時代)から察度王が中国と正式な外交関係を始めた時(1383年)まで代々かなり発展したと云う。しかし、同じ『琉球国由来記』巻四「事始 坤」に載っている「織」によると、琉球での織物は多分漢時代(紀元前206年~西暦220年)の、琉球と中国との交流から始まったとある。

引用文[12]

                

                  当国、織物者、何世代始乎、不考。漢、始也哉。

読み下し文(保留中)

これらの記録から得られた、琉球の初期の衣服や織りの技術に関する情報は曖昧なままである。織りは琉球列島でグスク時代(12-15世紀)以前から発展したが、その技術は恐らく比較的に単純なままだったと推測できる。14世紀後半以降、中国から布や衣服が導入され、公式服として使用された事は確かである。あくまでも私見であるが、琉球の織りの技術が著しく改善されたのはそれからだと考えている。

最も頻繁に引用されている古琉球の日常生活に関する書物は『朝鮮王朝実録』に記載されている1477年の「朝鮮人漂流記」である。与那国島の人々の衣服に関しては次のように伝えられている。

引用文[13]

                、 俗無冠帶, 暑則或用椶葉, 作笠, 狀如我國僧笠。

                 (…) 作衣如直領, 而無領及襞積, 袖短而闊, 染用藍靑。 

                        中裙用白布三幅, 統繫於臀, 婦人之服亦同。着裳, 而無中裙, 裳亦染

読み下し文[14]

                   一、 俗に冠帯無し。暑に則ち或いは椶葉を用て笠を作る。状、我が國の僧笠の如。
                 一、 (…) 作る衣は直領の如し。而れども領及び襞積無く, 袖短くして闊し。染むるに藍青を用う。
                          中裙用白布三幅, 統繫於臀, 婦人之服亦同。但着裳, 而無中裙, 裳亦染青。

先島は1500年以降尚清の支配下に入って、1477年に与那国島にはまだ君主や支配階級のメンバーが存在していなかったと思われている。従って、上記の記録の「冠帶が無い」は庶民の事だと推測する。「椶葉」の帽子は、現在、農民や漁師によってまだ使用されている「クバ笠」帽子を連想させる。「無領及襞積, 袖短」(プリーツ、衽、襟が無し、半袖)の衣服が与那国の、筒袖と無衽の「ドゥタティ」の事を指す可能性がある。現在のドゥタティは、お祭りの時のみに使われて、黒い襟があり、細い帯を着けるが、昔はそうではなかった。帯をしめないで、着物を腰の部分ではさみ込む着付の仕方は、第二次世界大戦まで沖縄の女子が使っていた「ウシンチー」を指すと思われる。女性が着用していたプリーツスカートは、恐らく以前ノロが儀式の公演中に着けたカカン(裳)の形態を指すだろう。上記の記録によると、藍染めはその時点で既に琉球で一般的に使用されていた事が判る。

 『朝鮮王朝実録』の同じ「朝鮮人漂流記」の別の記録からは、15世紀後半の琉球では、織る技術が既に比較的に高かった事が判る。その記録は次の通りである。

引用文[15]

                    織布用筬抒() 模樣與我國同 其他機械不同 升數麤細 亦與我國同

読み下し文[16]
                    
                     布を織るに筬抒()を用う。模様は我が国と同じ。其の他の機械は同じからず。升数の麤細もまた我が国と同じ。

上記の記録によると、15世紀末頃の琉球では、朝鮮と同じように、布を織る時に筬と杼が使われていたが、その他の道具は朝鮮のものと違っていた。筬と杼は、比較的高度な手織機の基本的なツールである。「升は舛でヨミのこと、一舛中の縦糸の数で布の粗密が決まる」と『多良間村史第二巻資料編1王国時代の記録』で説明されている[17]
 『歴代宝案』には、明朝の皇帝への贈り物の中で初めて琉球の織物(絶細漂白土夏布、絶細生土夏布)が記載されたのは1489年の記録の中である[18]。上記の引用からは、琉球列島における織物文化は、明との公式な関係と朝貢貿易の開始(14世紀末)以降、迅速に開発して、15世紀後半に朝鮮と同様なレベルまでに発展した事が推測できる。



[1]  この論考の詳細については久貝典子20004-5頁を参照ください。

[2] 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 の項目「流求國」

[3]  山里純一199377PDF20頁)

[4]  国分直一・恵良宏199668頁、78

[5]  この抜粋の細かい分析については久貝典子20007-9頁を参照ください。

[6]  久貝典子20007

[7] 宋・李昉 等撰『太平廣記:校補本』(下)中文出版社, 19721980頁)

[8] 読み下ろし文とこの抜粋の細かい分析については久貝典子200010-12頁を参照ください。

[10] 久貝典子200013-14

[11] 外間・波照間199789

[12] 外間・波照間1997126

[13] 池谷編 2005a60頁 『朝鮮王朝実録』「朝鮮人漂流記」

[14] 池谷編 2005b229

[15] 『朝鮮王朝実録』「朝鮮人漂流記」 

[16] 多良間村史1986677頁;池谷編 2005b231頁。

[17] 多良間村史1986678

[18] 歴代宝案1-24-01