第3項目 絹

糸芭蕉の学名と特徴について

 絹糸は蚕が作る繭から得られる。絹糸を採るための必要な準備作業は、蚕の飼育と、蚕が食べる葉っぱを得るための桑の木の栽培である。桑はクワ科(学名Moraceae)クワ属(学名 Morus)の木種である。蚕(学名 Bombyx mori)はチョウ目(学名 Lepidoptera)カイコガ科(学名 Bombycidae)に属する昆虫の一種である。その形態学的な開発は、卵から毛虫、蛹(さなぎ)、および蛾まで、いくつかの段階を伴う。繭の中で蛹に変身する段階の前に絹糸を生産して繭にするのは毛虫である。絹の長繊維を生産するためには、蚕は体に2つの長い嚢から成っている絹糸腺がある。この繊維は、見た目では1本の糸に見えるが、実は数本の絹の長繊維で構成されている。繭からとれる生糸をアルカリ性の薬品で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、絹糸になる。

文献的証拠

 古文献資料『琉球国由来記』(1713)、『中山伝信録』(1721)や『球陽』(Ryukyu, 1745)によると、支配階級の衣服には、「緞子」、「綢」、「綸子」、「紗」、「絽」、「錦」、「絹綾」などの優れた技術で作られた絹布もあった[1]。このような高級な絹布や衣服は、恐らく明代初期に開始した朝貢貿易による、中国の皇帝からの贈り物、及び中国商人の商売品として琉球に輸入されたと思われる。1844年~1846年間琉球にいたフランス人宣教師Théodore-Augustin Forcade〔テオドール=オギュスタン・フォルカード1816‐1885〕がLe Premier Missionaire du Japon au XIXe siècle19世紀における日本最初の宣教師〕」(1885)でこの朝貢貿易を次のように描いた。

引用文[2]             Depuis la dernière dynastie des Ming jusqu’à présent, il [Ryukyu] a obtenu d’être compté parmi les pays à qui la Chine confère

                            la dignité royale. De génération en génération il reçoit la dignité royale, et s’acquitte des devoirs de tributaire. C’est pourquoi,

                            usant de l’occasion où il va payer le tribut dans la province de Ming (du Fo-Kien), outre des ustensiles, on achète de plus des

                            étoffes de soie, tant pour confectionner les ornements royaux, que pour faire les bonnets et les habits des mandarins, afin que la

                            hiérarchie établie par la loi soit distinguée.

私訳                     最後の明朝から現在まで、琉球は中国が王としての尊厳を授与している国の一つとなっている。代々、王としての尊厳を受け、
                            貢ぎ物をする。したがって、明朝の福建省へ敬意を払う機会を使用して、〔琉球人〕は道具に加えて、絹の布を購入し、それらの布で、
                            法律により定められた位階を明らかにするように、〔琉球〕王室の装飾品及び、中国人〔中国福建から琉球へ渡来した久米三十六姓
                            及び琉球の王族・上級士族〕の帽子〔位階を表示する冠、ハチマチ〕や衣服を作ったりしている。

 上記の記録は、輸入された中国の絹布が王室の衣服、及び支配階級の位階制の確立のために使用された事を示している。上記の文献資料以外にも、豪華な中国の絹布で作られた琉球公式衣服の証拠は多いが、琉球列島における絹布の生産に関する証拠は非常に少ない。最古の文献資料では、桑の木と養蚕の存在の記載だけが絹布の生産を示唆する。前述した『朝鮮王朝実録』によると、1462年に久米島に漂流した朝鮮人は、琉球(現在の沖縄本島)では「無桑・麻・木綿」(桑・麻・木綿無し)と報告した[3]。同年、琉球使節として朝鮮へ渡る蔡璟は、この記載に矛盾しているが、絹布の生産に関する質問に対して次のように答えた。

引用文[4]                促勤蠶績 不織段子

読み下し文[5]         蚕績をむるをす。錦をるも段子らず。

 琉球で「無桑」、すなわち「絹の生産がない」という朝鮮人の記載とは違うが、蔡璟は「久米村の人であり、絹布を織る技術は、当時の琉球でまだ広く開発しておらず、沖縄本島の、現在の那覇周辺に滞在していた久米村の人々に限られていた可能性が十分にあると思う。ほぼ300年後、徐葆光は『中山伝信録』(1721)巻第5に載っている「冠服」という、琉球衣類に関する章に次のように述べた。

引用文[6]               各色錦帽錦帶本國皆無中店戶織市與之

現代語訳[7]           いろいろの色の錦帽や錦帯は、この国にはすべて(産出し)ない。福建の店で別織して売っている。

絹布の生産の技法がどこから琉球列島に導入されたのか、という疑問に関しては、琉球関係資料が矛盾している。『琉球由来記』(1713)巻19に載っている「堂之大比屋物語之事」によると、久米島の堂之大比屋が明朝(1368-1644年)の初代に中国から「綿子」[8]の生産の技術を導入した[9]。しかし、『琉球由来記』巻3「動植門」にある「蚕事」の項には、日本本土の宗味普基が1619年に養蚕、栽桑や製綿法を指導するために久米島に派遣されたという記録がある[10]。また、同じ記録によると、薩摩藩の友寄景友が尚豊王(在位1621-1640)の命令で久米島紬織の改善のために久米島で八丈島織の技術を教える。『琉球国旧記』(1731)の「巻之四」にも同じような記載がある[11]が、「遺老説伝」によると、紬糸を生産するための技術は以前中国人によって久米島に導入されたと付け加えられている[12]。この説は、久米島の人々が薩摩侵攻のだいぶ前から中国の養蚕を行い、紬を織っていた事を示唆する『琉球由来記』の「之大比屋物語」を裏付ける。上記の記録から、琉球王国の時代には、中国から導入された絹織りは広がず絶滅し、17世紀半ばに日本本土の影響で新たに導入されたと推測できる。

 1868年の明治維新後、日本本土では近代化が西洋の影響を強めた。機械化された様々な糸類の大量生産が奨励された。19世紀末に、都市でも田舎でも衣服などの流行が変わってきた。1902627日の琉球新報の記事によると、絹糸の生産がほぼ消えて、19世紀末に、絹(と木綿)糸の利用は完全に輸入に頼っていた[13]1972年の沖縄県祖国復帰後、輸入された絹糸が、徐々に元々木綿などで織られた読谷山花織(沖縄本島)や与那国花織(八重山)等々の伝統的な織物の糸の代わりに使用される。その理由は、沖縄の伝統的な織物製品の主な市場となっていた日本本土で絹が好ましい事である。

第4項目 綿・木綿

その学名と特徴について

『広辞苑』第三版(1985)で調べると、「綿」とは「〔省略〕(「棉」「木綿」の通用字)わた。もめんわた。」、「木綿」とは「〔省略〕キワタの蒴果(さくか)内にあって種子に着生する白くてやわらかな綿毛。〔省略〕もめんわた。生綿(きわた)[14]。〔省略〕木綿糸の略。〔省略〕木綿織の略。」の事である。「わた」には、漢字「綿」の他には、「棉」ともあるが、糸へんの「綿」は繊維の状態、木へんの「棉」は文字通り植物の事を表すようである。現在では、「綿」(わた、めん)と「木綿」(もめん)は「コットン」という、同じ植物繊維を表す。沖縄の方言で木綿のことを「ムミン」という。

植物学上は、植物である棉はアオイ科(学名Malvaceaeワタ属(学名Gossypium[15] に属し、大きく分けて4つのグループに分類される。それらはGossypium arboreum[16](「アルボレウム」というキダチワタ〔木立綿〕)、Gossypium herbaceum [17](「ヘルバケウム」というシロバナワタ〔白花綿〕)、Gossypium barbadense[18](「バルバデンセ」というカイトウメン〔海島綿〕)とGossypium hirsutum [19](「ヒルスツム」というリクチメン〔陸地棉〕)の種類である[20]。琉球列島で見られる棉種は、シロバナワタとキダチワタで、前者は1m位、後者は2m位になる [21]

植物になり綿の作物を生産するには少なくとも半年かかる。綿の植物は暖かい気候で最もよく育ち、水分がたくさん必要とするが、土が濡れてはいけない。頻繁な降雨が良いが、強い風は望ましくない。

文献的証拠

 前述した『朝鮮王朝実録』からは、15世紀末に琉球で木綿がまだ栽培されていなかった事が判る。又、郭汝霖の『使琉球録』(1558)の次の記録は、16世紀半ばになっても、琉球では木綿はまだ栽培されていなかった事を示す。

引用文[22]            其所好者惟鐡器綿布焉蓋其地不産鐡土不植綿故

読み下し文[23]    好むのは、ただ鉄器と綿布だけである。その地に鉄が産出せず、土地に木綿を植えないからであろう。

1606年、尚寧王の冊封使として来琉した中国人の夏子陽によると、「()土無木綿()」[24]つまり「土地は綿の栽培に適していない」[25]とされている。当時の琉球国では木綿の栽培はされていなかったようであるが、琉球王国の外交文書を記録した『歴代宝案』からは、15世紀に大量の綿布や綿糸が特に韓国から輸入された事が判る[26]。綿の布は、特に冬、冷たい風が吹く時、暖かいので、高く評価され、絹と同じように、専ら王および最高の支配階級により着用される豪華な物だった。

 『琉球由来記』(1713(巻3事始 乾)の「動植門」に載っている「木綿」の項目によると、木綿は17世紀初期に儀間真常により薩摩から琉球に入門された。

引用文[27]            当国、木綿者、万暦三十九年辛亥、麻氏儀間親雲上真常、從薩州帶来栽種、而終生長園

                               此時幸哉、日本之女、梅千代実千代、二女居住於泉崎村。真常呼二女。生長以綿花、始使造大帶

                               以後中繁茂也此木綿者 草類也 近世從レ閩帶来木綿者異也

現代語訳[28]          当国の木綿は、万暦391611〕年に麻氏儀間親雲上真常が薩摩から持ち帰って栽培したものである。

                               幸いなことに梅千代実千代という二人の日本人女性が泉崎村に住んでいた。真常は二人を呼んで、生長した綿花で始めて大帯を織らせた。

                    その後国中に繁茂した。(この木綿は草類で、近世に(閩)福州から輸入した木綿とは異なる) 

上記の「草類」は恐らGossypium herbaceum(シロバナワタ)の事を指すと思われる。又、この記録によると、別の種類は以前中国から導入された。『世界有用植物事典』によると、その種は木立綿であるGossypium arboreum、通称「中国綿」(Chinese cotton)であったとされている[29]

このように、17世紀初頭の琉球で庶民に木綿花が栽培され、木綿布に織られるようになったとされているが、木綿布の衣類は高級品であり、その着用はとにかく支配階級に限られており、庶民には禁止されていたようである[30]。また、18世紀の初め頃、首里王府は、蔡温の「農務帳」(1734)を通して納税品としての木綿花などの栽培を奨励していた[31]。しかし、前述したグリーンの報告(1856)で判るが、19世紀半ばになっても、庶民は木綿花を小規模にしか栽培していなかった。

引用文[32]             It [the cotton plant] is cultivated in small quantities, in rows, and, like all their culture, on a small surface.

私訳                    〔木綿花は〕他の栽培と同様に小さい面積で、少量で列に並べて栽培されている。

 田地奉行の「南風原間切総耕作当日記」(1859)からは、琉球の人々が木綿花を「手廣く」、つまり大量で栽培するように命令された事が判る[33]19世紀の後半には、日本本土での綿業の開発により、本土から沖縄への木綿糸の輸入が大きく推進された。明治321899〕年制定の「沖縄県土地整理法」に基づき、臨時沖縄県土地整理事務局によって地籍整備・土地整理事業が実施されたが、これに関連して行われた調査の結果を纏める『沖縄県土地整理紀要』の「主要工産物総額表」[34]で見ると、20世紀初頭には、「綿織物」(綿布)の生産が他の織物の生産を大きく超えていた(表1参照)。

表1:「主要工産物総額表(明34年調)」より

種類

数量

価額

絹織物

絹綿交織物

綿織物

麻織物

芭蕉布

5,782

1,060

142,658

19,970

82,677

22,964

1,399

218,208

181,404

82,722



[1]  外間・波照間199789頁、島尻1990462頁、嘉手納1978251

[2] Beillevaire 2000c110-111

[3] 池谷2005a34頁;池谷2005b143

[4] 池谷2005a37

[5]  池谷2005b154

[6] 「中山伝信録 515

[7] 原田1999388

[8]  古代や中世では、蚕の繭から作られた絹の「真綿」を意味する。

[9]  外間・波照間1997470頁(「() 堂之大比屋、渡唐シテ蚕ヲ飼コトヲ習得テ、綿子出来イタシタルト、世話二申伝ノ由アリ。」)

[10]  外間・波照間199794

[11] 伊波〔ほか〕197280

[12] 嘉手納『球陽外巻』。(さらなる文書:四方, 正義「沖縄県における養蚕の起源について」

[13] 沖縄県史1997118頁。ただし、私の八重山諸島での実地調査〔2000-2005年〕の間、何名かの女性の方から(第二次世界大)戦前に自己紡糸した絹糸で布を織ったことがあると聞いたので、絹布織りは完全には消えませんでした。

[14] 「真綿(まわた)」という言葉もあるが、これは綿ではなく絹のことである。

[15] ラテン語の「gossum」に由来し、「腫れもの」を意味する。

[16] ラテン語の「arbor」に由来し、「木」を意味する。

[17] ラテン語の「herbaceus」に由来し、「草本の」を意味する。

[18] ラテン語の「barba」に由来し、「ひげ」を意味する。1本の繊維がほかのどの綿よりも長くてしなやかである事を示す。

[19] ラテン語の「hirsutus」に由来し、「粗毛のある」 、「毛深い」を意味する。

[20] 堀田1989497

[21] Walker 1976714

[22] 原田2000290

[23] 原田2000164

[24] 原田2001401頁(現代語で「その土地には木綿はない」(原田2001266頁))

[25] 上江洲198615

[26] Kobata and Matsuda 19696

[27] 外間・波照間199791

[28] 上江洲198615

[29] 堀田1989495

[30] 上江洲198615-16

[31] 小野1968:69-70頁;上江洲198616

[32] Beillevaire 200234 [Green (1856)]

[34] 沖縄県土地整理紀要 1903「附録:風土民物」の「第四節 産業」172173〔PDFの95頁〕)、琉球政府1989 [1968]687